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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)5006号 判決

原告

小林茂

原告

小林カツ

右両名訴訟代理人弁護士

清野惇

〈外二名〉

被告

医療法人財団

圭友会

右代表者理事

小原準三

右訴訟代理人弁護士

小屋敏一

〈外二名〉

主文

一  被告は、原告らに対し、それぞれ金八三八万九二四九円及びその内金七九八万九二四九円に対する昭和四六年七月二四日から、残金四〇万円に対する本判決確定の日から、いずれも支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。ただし、被告が原告らに対しそれぞれ金四〇〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一、原告ら

主文一、二項と同旨の判決及び仮執行の宣言。

二、被告

「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決。

第二  当事者の主張

一、原告らの請求原因

1  原告らは、昭和四五年九月九日に死亡した訴外小林一三(昭和三四年一〇月一四日生、以下一三という。)の父母であり、かつ、その相続人である。他方、被告は、昭和四五年以前から、東京都中野区本町三丁目二八番一六号において、外科、内科、整形外科等を診療科目とする小原病院を開設し、医師竹内惟義(副院長兼外科医長、以下竹内医師という。)、同盧こと多田振西(外科医、以下多田医師という。)、看護婦市川京子(以下市川看護婦という。)、同宮下千代(以下宮下看護婦という。)らを使用して、同病院を経営している者である。

2  一三は、昭和四五年九月八日、原告らのかかりつけの医師栄敏孝の診察を受けたところ、虫垂炎の疑いがあると診断されたもので、同医師の紹介により、同日、被告経営の小原病院に入院した。そして、一三は、同月九日午前中に、被告の代表者である医師小原準三(院長)及び竹内医師の診察を受けたところ、虫垂炎にかかつていると診断されたので、原告らは、直ちに、自らも契約当事者になるとともに、一三の法定代理人としての資格をも兼ねて、被告との間で、一三の虫垂摘出手術及びその術前、術中、術後における適切かつ完全な医療の施行を内容とする医療契約(以下本件契約という。)を締結した。

3  被告は、本件契約に基づき、同月九日午後二時すぎごろから、竹内医師及び多田医師らの担当により、一三に対しまず腰椎麻酔を施したうえ、その虫垂摘出手術(以下本件手術という。)を行つたが、一三は、右手術の後同日午後五時二〇分ごろまでの間に、死亡するに至つた。

4(一)  ところで、一三の右死亡は、小原病院における本件手術及びその術前、術中、術後の医療措置が不適切であり、不完全であつたことにより、惹起されたものであつて、その詳細は、(二)以下に述べるとおりである。

(二)  まず、一三の死因は、竹内医師に対する業務上過失致死被疑事件についてなされた医師斉藤銀次郎の鑑定によれば、腰椎麻酔を含む本件手術後のショックであると推定されているが、この推定には疑問の余地があり、右鑑定における解剖所見等からすれば、一三の死亡は、右手術に伴うその他の合併症によつて生じた疑いもある。

(三)  麻酔及び手術の安全性を増進するためには、麻酔前にアトロピン、スコポラミン等の前投薬を使用することが本件手術当時一般に必要とされており、とくに小児の場合には不可欠のものとされていたにもかかわらず、本件手術前には何ら前投薬が使用されなかつた。

(四)  脊髄の尾端は、成人の場合でも、第一、第二腰椎の高さに及んでいるから、麻酔の注入による脊髄の損傷を避けるためには、第二腰椎以上には穿刺をしないのが原則であり、小児の場合には一〇歳以上でも第三腰椎以下を選ぶべきものとされているにもかかわらず、多田医師は、一三の腰椎麻酔に際し、第一腰椎と第二腰椎との間に穿刺をしているから、一三の脊髄に損傷を与えた可能性がある。また、腰椎麻酔による麻痺の生じる部位の高さは穿刺の部位によつても左右されるから、右のような高い部位への麻酔の注入は、一三の呼吸に悪影響を与えた可能性も否定することができない。

(五)  手術中の神経反射は、血圧下降や呼吸障害の原因となる場合があるから、このような神経反射を予防しまたは軽減するためには、手術前に前投薬を使用するのはもちろん、手術中に腸間膜に浸潤麻酔を行い神経ブロックをすべきであつたのにかかわらず、本件手術に当つては、そのような処置はとられず、単に鼻腔カテーテルによる酸素吸入が行われたにすぎなかつた。

(六)  麻酔による血圧下降は、麻酔開始後三〇分以内、遅くとも五〇分以内に生じるとされているのであるから、術前、術後の血圧の測定及び脈搏数の測定は十分綿密に行うべきであつたのにかかわらず、一三に対する血圧の測定は、麻酔開始前の午後一時五五分(一一四―七〇)、麻酔開始二分後の午後二時一六分(一〇四―九〇)、同六分後の午後二時二〇分(一一〇―八〇)及び執刀開始五分後の午後二時二九分(九二―五〇)の合計四回行われただけであり、脈搏数の測定は全く行われなかつた。

(七)  麻酔による麻痺の範囲が固定するまでには相当の長時間を要するのであり、とくに一三の麻酔に使用されたネオベルカミンSは作用時間の長い薬剤であるから、手術後においても相当の長時間にわたりかつ慎重に安全を確認する必要がある。しかるに、本件手術の終了後から手術室退室までの時間はわずか三分間であり、また、多田医師は、本件手術終了後、安全確認の方法として、一三の胸壁部をつねつて痛覚のあることを確かめ、一三に深呼吸をさせてみただけにすぎないのであるが、これだけでは手術後の安全確認は甚だ不十分である。また、手術後の容態は、一度酸素吸入を中止したうえ、これを行うべきであり、そして、その後も酸素吸入を必要とすると認められる場合には、これを継続して行うべきであつたのにかかわらず、本件手術後においては、いずれもこれが行われなかつた。

(八)  本件手術後、手術台からストレッチャー(搬送車)に移され、手術室を退室した一三は、その直後に、苦しい、声が出ないなどと訴えたが、このような場合には、呼吸麻痺、喉頭けいれん等による気道閉塞の生じている疑いがあるのであるから、搬送を担当していた宮下看護婦は、直ちに搬送を中止して一三を手術室に戻し、医師の指示を求めるべきであつたのに、これを怠り、病室まで搬送を続けた。また、不測の事態に備え静脈を確保しておくためには、搬送中においても一三に対する点滴を継続すべきであつたのにかかわらず、宮下看護婦は、一三が腕を動かそうとしただけの理由で、本件手術前からその右腕に刺してあつた点滴針を搬送途中で抜いてしまつた。

(九)  一三を病室に搬送した後における同人に対する呼吸蘇生のための処置も適切なものではなかつた。すなわち、一三に対する呼吸蘇生のための処置として最初にとられたものは胸壁外人工呼吸であるが、胸壁外人工呼吸は呼吸停止に対して最も効果の少ない方法である。また、患者が意識喪失の状態にある場合には、舌根の沈下による咽頭腔の閉塞の生じていることが多いのであるから、医師及び看護婦としては、まず、舌根の沈下の有無を確認し、その沈下による咽頭腔の閉塞の生じている場合には、気管内挿管法その他の方法により、舌根の沈下を解除し、気道を確保することが必要であり、さらに、このような方法をとることが不可能な場合には、直ちに気管の切開を行わなければならないのにかかわらず、一三に対する気管内挿管の方法としては、多田医師が病室に到着してから五〇分も経過した後に閉鎖循環式全身麻酔器による方法が試みられたのみにすぎず、しかも、この方法による気道の確保が成功しなかつたのにかかわらず、気管の切開は行われなかつた。

(一〇)  一三に対する循環蘇生のための処置も適切なものではなかつた。すなわち、多田医師が病室に到着した当時には、一三の心搏動は非常に弱く、その口唇、爪床のチアノーゼは中等度を呈していたのであるから、一三は、心停止の疑いがあり、直ちに心マッサージを必要とする状態であつた。したがつて、このような場合には、まず、心電図検査または開胸検査を行い、心停止が心静止の状態であるか、心室細動の状態であるかを確認し、心室細動の場合には、電気ショックを加えるべきであり、また、心マッサージの方法としては、まず非開胸マッサージを行い、その効果がない場合には、開胸マッサージを行うべきであつた。しかるに、多田医師らは、心電図検査等を直ちに実施せず、また、心マッサージとしては、単に非開胸マッサージを行つたのにすぎず、電気ショック、開胸マッサージ等は全く実施しなかつた。さらに、呼吸蘇生のための処置と、循環蘇生のための処置とは、同時に行う必要があつたのにかかわらず、多田医師らは、胸壁外人工呼吸と非開胸マッサージとを交互に行つたのにとどまり、これらを同時に行わなかつた。

(一一) 一三に対する救急処置のために使された薬剤は、カルニゲン四アンプル、ビタカンファ六アンプル、プロタノール二アンプル、テラプチク二アンプル、アトムラチン一アンプル、デキサシエロソン二アンプルであるが、これらの注射された時間や順序は明らかでない。しかも、これら薬剤のうち、ビタカンファは、強心効果がほとんどなく、末梢血流の改善にも役立たず、重症患者に対しては悪影響すら及ぼすものであり、テラプチクは、末梢性呼吸麻痺には効果がなく、さらに、アトムラチンは、安全量では効果が少なく、有効量では危険である。

5  なお、被告は、一三の死亡は腰椎麻酔を含む本件手術後のショックによつて生じたものであり、そのショックは一三が胸腺リンパ体質という先天性特異体質を有したために生じたものであるから、その死亡は不可抗力によるものであると主張している。しかしながら、胸腺またはリンパ節の肥大と抵抗の減弱ないし死亡との因果関係は全く不明であり、また、胸腺リンパ体質という先天性特異体質の存在すら否定する学説も少なくない。さらに、胸腺肥大のある者は、副腎の発育不全を伴い、性器、循環系の発育不全の認められる場合が多いとされているが、一三についてはそのような特徴の存在は認められない。したがつて、一三の死亡が胸腺リンパ体質のために生じたものであるか否かは結局不明というべきであり、その死亡は不可抗力によるものであつたとはいえない。

6  以上によれば、被告は、一三の死亡の結果一三自身及び原告らがそれぞれ被つた損害につき、主位的には、本件契約上の債務の不履行(不完全履行)による責任を理由として、予備的には、民法第七一五条所定の使用者の責任を理由として、これを賠償する義務を負つたものというべきである。

7(一)  一三の死亡の結果一三自身及び原告らが被つた損害は、次のとおりである。

(二)  まず、一三自身は、その死亡の結果、同人が生存しておれば将来取得することのできた利益金一六九五万一三九二円を喪失し、これと同額の損害を被つた。すなわち、一三は、その死亡の当時満一〇歳一〇か月の男子であり、生前は健康であつたから、同人が生存しておれば、その後高等学校を卒業し、通常の給与生活者として就職して、少なくとも満一八歳から満六七歳までの四九年間給与の支払を受けることができたはずであるが、その死亡の結果、これが不可能となつた。ところで、昭和四十八年度における男子常用労働者(規模三〇人以上の事業所)の月間平均現金給与額は金一四万一二一五円であるから、この金額を基準とし、かつ、生活費相当額としてその二分の一の金額を控除するとともに、年ごとホフマン式計算方法(係数20.0066)により一三が右の四九年間に取得することのできた純利益額から中間利息を控除して、一三がその死亡時において一時に請求しうる金額を計算すると、金一六九五万一三九二円となる。したがつて、一三は、その死亡の結果、これと同額の損害を被つたことになる。そして、一三の相続人は、原告ら両名だけであるから、原告らは、一三の死亡と同時に、相続により、一三の被告に対する右損害の賠償請求権の各二分の一に相当する各金八四七万五六九六円の損害賠償請求権を承継取得したというべきである。

(三)  また、原告らは、その長男である一三の不慮の死亡により、甚だしい精神的苦痛を被つたものであるが、この苦痛を慰藉するには、被告は、原告らに対し、少なくとも各金三〇〇万円以上の慰藉料を支払うべきである。

(四)  さらに、原告らは、被告が以上の損害金を任意に支払わないので、やむをえず訴訟手続によりその支払を請求することにしたが、原告らは、法律知識に疎いため、訴訟手続の追行につき、弁護士清野惇ほか二名の弁護士に訴訟代理を委任し、同弁護士らに対し、着手手数料として金二五万円を現実に支払い、また、報酬として金八〇万円を後日支払うことを約束せざるをえなかつた。したがつて、原告らは、一三の死亡の結果、右弁護士費用合計金一〇五万円の各二分の一に相当する各金五二万五〇〇〇円の損害を被つたことになる。

8  よつて、原告らは、それぞれ被告に対し、右7記載の各損害金のうち、(二)記載の損害金の内金五八六万四二四九円、(三)記載の損害金の内金二〇〇万円及び(四)記載の損害金五二万五〇〇〇円の合計金八三八万九二四九円並びにその内金七九八万九二四九円(右合計金額から(四)記載の弁護士報酬額の二分の一の金四〇万円を控除した金額)に対する本件訴状の送達によりその支払の請求をした日の翌日である昭和四六年七月二四日から、残金四〇万円に対する本判決確定の日から、いずれも支払ずみに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うことを請求する。

二、請求原因に対する被告の認否及び主張

1  請求原因1ないし3記載の事実はいずれも認める。

2(一)  請求原因4の(一)記載の主張は争う。

(二)  請求原因4の(二)記載の主張は争う。一三の死因は、医師斉藤銀次郎の鑑定のとおり、腰椎麻酔を含む本件手術後のショックである。

(三)  請求原因4の(三)記載の事実のうち、本件手術前に前投薬が使用されなかつたことは認める。しかし、前投薬の使用が必要とされるのは、全身麻酔の場合または大手術の場合であつて、腰椎麻酔の場合または虫垂摘出手術のような小手術の場合には、その使用の必要はない。なお、学説の中には前投薬の使用を不必要とするものもないわけではない。

(四)  請求原因4の(四)記載の事実及び主張は争う。多田医師が穿刺をした部位は、一三の第二腰椎と第三腰椎との間であり、そして、その穿刺が一三の脊髄に損傷を与えたこともなければ、その穿刺による麻酔の注入が一三の呼吸に悪影響を与えたこともない。

(五)  請求原因4の(五)記載の事実のうち、本件手術に当り、鼻腔カテーテルによる酸素吸入が行われたが、原告ら主張のような処置がとられなかつたことは認める。しかし、現在の段階では神経反射の予防または軽減についての安全かつ確実な方法はなく、患者の具体的な症状に応じて対処してゆく以外に方法はない。そして、一三の場合には、悪心、嘔吐が比較的に少なく、血圧も良好であつたので、原告ら主張のような処置をとる必要は全くなかつた。

(六)  請求原因4の(六)記載の事実のうち、一三に対する血圧の測定が原告ら主張のとおりに行われたことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。一三に対する脈搏数の測定は、血圧測定と同時に必ず行われていたし、これらの測定による一三の血圧下降及び脈搏数には、心配に値いするような異常は全くなかつた。

(七) 請求原因4の(七)記載の事実のうち、一三の麻酔に使用された薬剤がネオペルカミンSであること、本件手術の終了後から手術室退室までの時間が三分間であること、多田医師が、本件手術終了後、一三の胸壁部をつねつて痛覚のあることを確かめ、一三に深呼吸をさせて、手術後の安全確認をしたこと、本件手術後、一三に対する酸素吸入を継続して行わなかつたことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。麻酔後の容態の観察は、一五分間行えば十分であり、また、一三は、その間の容態観察の結果、何ら呼吸抑制または呼吸障害を起していなかつたのであるから、本件手術後酸素吸入を継続して行う必要はなかつた。

(八)  請求原因4の(八)記載の事実のうち、宮下看護婦が、一三を手術台からストレッチャーに移し、手術室から病室まで搬送したこと、その搬送中に、一三が腕を動かそうとしたので、本件手術前からその右腕に刺してあつた点滴針を一時取り外したことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。なお、宮下看護婦が点滴針を一時取り外したのは、点滴針をそのままにしておくと、一三の腕の血管等に損傷を与える危険が生じたからである。

(九)  請求原因4の(九)記載の事実のうち、一三に対する呼吸蘇生のために最初にとられた処置が胸壁外人工呼吸であること、閉鎖循環式全身麻酔器による気管内挿管の方法が試みられたが、気道の確保が成功しなかつたこと、気管の切開が行われなかつたことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。多田医師、竹内医師、宮下看護婦及び市川看護婦らは、病室における一三の容態の急変に応じ、まず胸壁外人工呼吸を行つたほか、その後互いに協力して、マウス・ツー・マウス式の人工呼吸、人工蘇生器、全身麻酔器による呼吸の回復を試みるなど、一三の呼吸蘇生のために敏速かつ的確な救急活動を行つた。

(一〇)  請求原因4の(一〇)記載の事実のうち、多田医師らが心電図検査を直ちに行わなかつたこと、開胸マッサージ、電気ショック等を全く実施しなかつたこと、胸壁外人工呼吸と非開胸マッサージとを同時に行わず、交互に行つたことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。一三のような幼児の場合に、胸壁外人工呼吸と非開胸マッサージとを同時に行うことは困難であるし、また、これらの処置をとりながら、心電図検査を同時に行うことも不可能である。さらに、開胸マッサージは、臨床的には一般に採用されていないし、電気ショックの設備は、特殊な大病院以外には設置されていない。なお、一三の場合には、開胸マッサージ等の処置をとる時間的余裕もなかつた。

(一一)  請求原因4の(一一)記載の事実のうち、一三に対して原告ら主張の各薬剤が使用されたことは認める。しかし、これらの薬剤の使用が不適切であつたという原告らの主張は争う。

3  請求原因6記載の主張は争う。

4  請求原因7の(一)ないし(四)記載の事実のうち、一三がその死亡の当時満一〇歳一〇か月の男子であつたこと、一三が原告らの長男であることは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

5  一三の死亡は、腰椎麻酔を含む本件手術後のショックによつて生じたものであり、かつ、そのショックは、一三が胸腺リンパ体質という先天性特異体質を有したために生じたものであるから、その死亡は、不可抗力によつて生じたものというべきであつて、小原病院の医師及び看護婦またはその経営者である被告は、その死亡につき、何ら責任を負うものではない。すなわち、医師斉藤銀次郎の鑑定によれば、一三の死因は腰椎麻酔を含む本件手術後のショックであると推定されており、かつ、一三は、その胸腺の重さが七五グラムであつてきわめて著しく肥大するとともに、その舌根部及び小腸下部粘膜のリンパ装置の発育がきわめて可良であつて、外界の侵襲に対してショックを起しやすい胸腺リンパ体質という先天性特異体質を有していたとされている。そして、一三が胸腺リンパ体質を有するか否かについては、本件手術前に外部からこれを確認する方法がなかつた。他方、右鑑定によれば、一三の虫垂は完全に摘出され、摘出部は完全に結紮されていて、本件手術が不適当であつたと考えられる点は認められず、また、腰椎麻酔の注射量などにもとくに不適当であつたと考えられる点は認められないとされている。さらに、一三に対する腰椎麻酔を担当した多田医師は、麻酔注射の適否の判断及びその注射の手技につき十二分な能力を有していたものであつて、これらの点につき過失はなかつた。したがつて、一三の死亡は、本件手術前に確認する方法のない同人の胸腺リンパ体質という特異体質のために生じたものであつて、不可抗力によるものであつたといわざるをえない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1ないし3記載の事実は、いずれも当事者間に争いがない。そして、これらの事実によれば、被告は、原告ら及び一三と被告との間で締結された本件契約に基づき、その契約締結当時における医学の水準に準拠した知識と技術とを利用して、本件手術を施行するのはもとより、本件手術及びそれに先立つ腰椎麻酔から派生することの予測される種々の緊急事態に対処するため、本件手術の術前、術中、術後において、医学の水準に準拠した適切かつ完全な診断、治療等の医療措置をとるべき債務を負つていたものというべきであり、また、被告の被用者である竹内医師、多田医師、市川看護婦及び宮下看護婦らは、被告の右債務の履行補助者としての地位にあつたものというべきである。

二1  ところで、原告らは、本件手術後における一三の死亡は小原病院における本件手術及びその術前、術中、術後の医療措置が不適切であり、不完全であつたことにより、惹起されたものであると主張するので、以下にこの主張の当否について判断する。

2  まず、一三の死因について争いがあるので、この点について判断するに、原本の存在及び成立に争いのない乙第一号証(竹内医師に対する業務上過失致死被疑事件について東京地方検察庁検察官からの嘱託に基づいてなされた医師斉藤銀次郎の鑑定結果の報告書)によれば、一三の死体についての解剖所見及び組織学的所見として、血液の流動性、諸臓器における溢血及びうつ血、高度の肺水腫、脾臓における好酸球の滲出等、ショックにより死亡した死体についてしばしば認められる顕著な所見が認められる反面、その他の死因を推定させるような所見は認められないので、一三の死因は、腰椎麻酔を含む本件手術後のショックであると推定していることが認められ、この推定を覆すに足りる証拠はないから、一三の死因は、この推定のとおりであると認めるのが相当である。

3  一三の右死因に関し、被告は、右ショックは一三が胸腺リンパ体質という先天性特異体質を有したために生じたものであるから、一三の死亡は不可抗力によつて生じたものというべきであると主張しているので、検討するに、〈証拠〉によれば、一三は、その死亡当時、胸腺の重さが七五グラムであつてきわめて著しく肥大するとともに、舌根部及び小腸下部粘膜のリンパ装置の発育がきわめて可良であつて、先天性特異体質といわれる胸腺リンパ体質を有していたことが認められ、また、〈証拠〉によれば、従来から、胸腺リンパ体質を有する者は、一般に外界からの刺激に対する抵抗が弱く、わずかな刺激によつてもショックを起し、胸腺死と呼ばれる不慮の死を招きやすいといわれてきたことが認められる。しかしながら、〈証拠〉によれば、最近においては、胸腺リンパ体質と外界からの刺激に対する抵抗の強弱、ショックないし胸腺死との関係に疑問を呈し、これを否定する学説も少なくないことが認められるし、また、一三の死因であるショックが一三が胸腺リンパ体質を有していたことのみによつて生じたものであることを確認するに足りる証拠も存在しない。さらに、〈証拠〉によれば、患者に腰椎麻酔を施した場合には、これに伴う危険な偶発症として呼吸麻痺と血圧下降ないし心停止との生じることがあり、それらのショックによつて患者の死亡することが起りうること、そのため、医学界においては、腰椎麻酔に伴う右のような偶発症ないしそのショックの予防措置と治療とに関する種々の医療方法が研究され、かつ、実施されていること、そして、現在においては、腰椎麻酔に伴うショック死は、麻酔の管理を十分に行えば避けることができるのであつて、もしそのようなショック死が起きたとすれば、それは、術前、術中、術後における患者に対する医療措置に不適切、不完全な点のあつたことが主要な原因であると解されていることが認められる。そうすると、一三がその死亡の当時先天性特異体質といわれる胸腺リンパ体質を有していたとしても、そのことから直ちに、一三の死亡がそのような体質のためにのみ生じたものと判断することは困難であり、したがつて、一三の死因については、さらに進んで、小原病院における腰椎麻酔を含む本件手術及びその術前、術中、術後の医療措置に不適切ないし不完全な点がなかつたか否かが検討されなければならない。

4  そこで、以下原告らの主張に従い、小原病院における本件手術及びその術前、術中、術後の医療措置の適否について検討するに、原告らは、まず、本件手術前に何ら前投薬が使用されなかつたことを問題としており、そして、本件手術前に前投薬が使用されなかつたことは、当事者間に争いがない。ところで、〈証拠〉によれば、前投薬は、手術前の患者の不安の除去、基礎代謝の低下、自律神経反射の予防及び唾液等の分泌の抑制等を目的として、麻酔の施行前に投与される薬品であつて、これを使用することにより、麻酔の導入を円滑にするとともに、その維持を容易にし、麻酔や手術に伴う偶発症の発生を予防する効果を有すること、現在においては、全身麻酔であると、腰椎麻酔であるとを問わず、前投薬を使用しないで麻酔を施行することはほとんどなく、とくに患者が小児である場合や喘息等の既往症を有する場合には、偶発症の発生する危険性が高いので、前投薬を必ず使用すべきであること、前投薬としては、アトロピン、スコボラミンその他種々の薬品が使用されていることを認めることができ、〈証拠判断略〉また、腰椎麻酔等の場合には前投薬の使用の必要がないという被告の主張も理由がない。そして、一三が本件手術の当時満一〇歳一〇か月の小児であつたことは、当事者間に争いがなく、また、〈証拠〉によれば、一三は気管支喘息の既往症を有したものであるところ、原告小林カツは、昭和四五年九月八日、一三を小原病院に入院させた際、このことを同病院の当直医に告知していることが認められる。そうすると、一三の場合には、本件手術前に前投薬を使用する必要があつたか、少なくともそれを使用するのが適当であつたと解すべきであり、したがつて、小原病院における一三の医療措置については、まず、本手術前に前投薬を使用しなかつた点に不適切な点があつたものといわなければならない。

5  次に、原告らは、麻酔注入の際における穿刺の部位を問題にしているので、検討するに、前掲乙第一号証によれば、一三に対する麻酔注入の際の穿刺の部位は、第一腰椎と第二腰椎との間であつたと認めるのが相当である。ところで、〈証拠〉によれば、麻酔注入の際の穿刺による脊髄の損傷を避けるためには、一〇歳未満の小児の場合には第四腰椎と第五腰椎との間を、一〇歳以上の場合でも第三腰椎以下を選ぶのが相当であり、それ以上の高位穿刺は脊髄損傷の危険を伴うといわれていること、また、穿刺の部位は、麻酔薬の比重、濃度、量、注入の速度、注入時及び注入後の体位などとともに、麻痺の生じる部位の高さを決定する因子の一つであつて、穿刺の部位が高いほど、呼吸麻痺及び血圧下降が著しくなるといわれていることを認めることができる。そうすると、一三に対する麻酔注入の際の穿刺の部位は、高きにすぎたというべきであつて、そのことが一三の呼吸麻痺及び血圧下降の原因の一つとなつた可能性を否定することはできない(前掲乙第一号証も、何らこの可能性を否定するものではない。)。

6  原告らは、本件手術中における一三の神経反射を予防しまたは軽減するための処置に不完全な点があつたと主張しており、そして、本件手術に当り、鼻腔カテーテルによる酸素吸入は行われたが、腸間膜に浸潤麻酔を行い神経プロックをするなどの処置がとられなかつたことは、当事者間に争いがない。ところで、〈証拠〉によれば、麻酔下において諸反射機能が攪乱されている場合には、いわゆる迷走神経反射として、虫垂や腸間膜などに刺激を与えただけで、悪心、不快感を訴え、低血圧が起りうることがあり、しかも、この反射については、麻酔自体のほかに、低酸素症や炭酸ガスの蓄積が原因をなしていることもありうるから、虫垂摘出のため盲腸を引張る際に患者が悪心、不快感を訴えた場合には、まず、腸間膜に浸潤麻酔を施すのがよく、さらに、その際必ず血圧下降の有無を確認し、血圧下降がある場合には、酸素吸入等の処置をとる必要があるとされていることを認めることができる。そして、〈証拠〉によれば、一三は、本件手術中盲腸を引張られた際、上腹部に不快感のあることを訴えたのにかかわらず、竹内医師及び多田医師は、一三に対し、鼻腔カテーテルによる酸素吸入を行つたのにとどまり(酸素吸入自体は、適切な処置である。)、腸間膜に浸潤麻酔を施すなどの処置をとらなかつたものであることが認められる。そうすると、程度の大小はともかく、本件手術中における一三の神経反射を予防しまたは軽減するための処置に不完全な点がなかつたとは断定しえない。

7  原告らは、本件手術前及び術後における一三に対する血圧の測定及び脈搏数の測定が不十分であつたと主張している。そして、本件手術に際し、一三に対する血圧の測定が原告ら主張のとおり四回行われたことは、当事者間に争いがないが、血圧の測定がそれ以上に行われたか、また、それと同時に脈搏数の測定も確実に行われたかについては、これを積極的に認めるに足りる証拠は存在しない。ところで、〈証拠〉によれば、一三に対する腰椎麻酔が開始された時間は昭和四五年九月九日午後二時一四分であり、本件手術が開始された時間は午後二時二〇分であり、これが終了した時間は午後二時三七分であり、さらに一三が手術室から退室した時間は午後二時四〇分であること、一三の麻酔に使用された薬剤がネオペルカミンS1.3ミリリットルであつたこと(なお、麻酔に使用された薬剤がネオペルカミンSであること自体は、当事者間に争いがない。)を認めることができ、また、〈証拠〉によれば、麻酔に伴う血圧下降は、普通麻酔の開始後一五分から三〇分までの間に生じるが、それ以後に生じる場合も稀ではないこと、ネオペルカミンSは作用時間の長い薬剤であり、麻痺の範囲が固定するまでにかなりの長時間を要することを認めることができる。そうすると、本件手術後における一三に対する血圧の測定及び脈搏数の測定が十分であつたと断定することはできないものといわなければならない。

8  原告らは、一三に対する本件手術後手術室退室までの安全確認が不十分であつたと主張している。そこで、検討するに、一三の麻酔に使用された薬剤がネオペルカミンSであること、一三の本件手術の終了後から手術室退室までの時間が三分間であつたことは、当事者間に争いがないところ、前記認定のとおり、ネオペルカミンSは作用時間の長い薬剤であり、麻痺の範囲が固定するまでにかなりの長時間を要するものであつたのにかかわらず、本件手術後における一三に対する血圧の測定及び脈搏数の測定が必ずしも十分であつたといえないことは、右7で判断したとおりであるから、一三を本件手術の終了後わずか三分間で手術室から退室させたことは、安全の確認上問題であつたといわなければならない。また、本件手術の終了後、多田医師が、手術後の安全確認の方法として、一三の胸壁部をつねつて痛覚のあることを確かめ、一三に深呼吸をさせてみたことは、当事者間に争いがないが、それが手術後の安全確認の方法として十分なものであつたか、また、それ以外に安全確認の方法がとられたかについては、これを積極的に肯定するに足りる証拠はない(かえつて、〈証拠〉によつて認められる脊髄神経の分布状況に照らして考えると、右のような方法だけでは、手術後の安全確認の方法としては十分でなかつたのではないかとの疑問が生じる。)。さらに、本件手術後、一三に対する酸素吸入を中止し、これを継続して行わなかつたことは、当事者間に争いがないところ、〈証拠〉によれば、手術後、患者に対する酸素吸入を急に中止すると、酸素の不足を生じ、低酸素症が悪化するおそれがあるので、酸素吸入は、患者の低酸素症の症状が十分に改善されるまで継続して行う必要があるといわれていることが認められるから、本件手術後一三に対する酸素吸入を右のように急に中止してしまつたことも、安全の確認上慎重を欠くものであつたといわなければならない。

9  原告らは、本件手術後一三を手術室から病室まで搬送した宮下看護婦の搬送中の処置についても不適切な点があつたと主張している。そして、本件手術後、宮下看護婦が、一三を手術台からストレッチャーに移し、手術室から病室まで搬送したこと、その搬送中に、一三が腕を動かそうとしたので、本件手術前からその右腕に刺してあつた点滴針を取り外したことは、当事者間に争いがなく、また、〈証拠〉によれば、手術室を退室した一三は、その直後に、苦しい、声が出ないなどと訴え、もだえ苦しむような態度を示したこと、しかるに、宮下看護婦は、何ら医師の指示を求めることなく、そのまま病室まで一三の搬送を続けたこと、なお、搬送中に取り外された点滴針は、一三が病室に移され、ほとんど心搏停止に近い状態に陥つた後、再度その下肢に刺されるまで、外されたままにしてあつたことを認めることができる。ところで、〈証拠〉によれば、腰椎麻酔に伴う呼吸麻痺は、固定の遅い薬剤を使用した場合には、麻酔施行の直後だけでなく、かなり遅れて発生することもあること、この場合、患者は、呼吸が苦しい、胸が苦しいなどと訴え、不安な状態を示し、ささやき声しか出せなくなること、そして、患者がこのような徴候を示す場合には、相当高度の呼吸麻痺に陥つている疑いがあるから、十分に注意をする必要があるといわれていることを認めることができるし、また、〈証拠〉によれば、腰椎麻酔の場合には、その全過程を通じて点滴により静脈を確保しておくことは、きわめて重要な循環対策であつて、もしこのようにして静脈を確保しておかないと、血圧下降、心停止が生じた場合には、血管が細くなつて静脈穿刺が非常に困難になること、点滴により静脈を確保しておけば、点滴による静脈還流の増加だけでも血圧下降の回復を早めることができるし、点滴を利用して必要な薬剤を注入することも可能であることを認めることができる。そうすると、一三が苦しい、声が出ないなどと訴えたのにかかわらず、宮下看護婦が医師の指示を求めることなく、そのまま一三を病室まで搬送したこと、及び宮下看護婦が一三の搬送中に点滴針を取り外してしまつたことは、いずれも適切を欠く処置であつたといわざるをえない。

10  さらに、原告らは、一三を病室に搬送した後における同人に対する呼吸蘇生のための処置も適切なものでなかつたと主張している。そこで、検討するに、まず、〈証拠〉を総合すると、一三は、手術室から病室に搬送され、ベッドに移されると間もなく、呼吸停止及び心停止に近い状態に陥つたこと、そこで、宮下看護婦及び急を聞いて病室に駆けつけた市川看護婦らは、一三に対し、まず壁外人工呼吸を行うとともに、酸素吸入器、人工蘇生器を搬入して、これらによる酸素の供給を試み、かつ、その同一時的にマウス・ツー・マウス式の人工呼吸も試みたこと、多田医師も、その後間もなく、一三の容態の急変を知つて病室に駆けつけたが、当時一三は口唇、爪床のチアノーゼが中等度を呈し、意識不明の状態に陥つていたので、多田医師は、直ちに、胸壁外人工呼吸と非開胸心マッサージとを交互に繰り返して行うとともに、人工蘇生器による酸素の供給、気管内チューブの気管内への挿入等を試み、最後には、閉鎖循環式全身麻酔器を取り寄せ、これによる気道の確保を試みたこと、さらに、竹内医師も、その間に他の虫垂摘出手術を行つたうえ、多田医師より約二〇分遅れて病室に駆けつけ、心電図検査を実施するとともに、多田医師らと協力して、一三の呼吸の蘇生に努力したこと、なお、その間、多田医師及び竹内医師の指示により、多数の救急薬剤が一三に注射されたこと、しかし、以上のいずれの試みも結局成功せず、一三はそのまま死亡するに至つたことを認めることができる。そして、一三に対する呼吸蘇生のための処置につき、最初にとられた処置が胸壁外人工呼吸であること、一三の気道の確保が成功しなかつたこと、一三の気管の切開が行われなかつたことは、当事者間に争いがない。ところで、〈証拠〉によれば、患者が呼吸抑制ないし呼吸停止の状態に陥つた場合には、きわめて迅速に呼吸蘇生の処置をとる必要があること、その場合にまず第一にとるべき処置は気道の確保であつて、そのためには、まず、舌根の沈下などによる咽頭腔の閉塞の有無を確かめ、その閉塞がある場合には、頭部後屈法、下顎前推法、願挙上法、さらには、エアウェイの使用、気管内チューブの挿入などの方法により、気道の確保をはかり、それらが不可能な場合には、直ちに気管の切開を行わなければならないこと、そして、以上の方法による気道の確保がなされない限り、いかなる人工呼吸の方法もその効果を生じないこと、次に、人工呼吸の方法としては胸壁外人工呼吸よりも加圧式人工呼吸の方がはるかに優れているから、後者を選ぶべきであること、加圧式人工呼吸としては、人工蘇生器、閉鎖循環式全身麻酔器などを使用した純酸素による人工呼吸が優れているが、これらの器具がない場合には、マウス・ツー・マウス式の人工呼吸を行うのがよいとされていることを認めることができる。そうすると、宮下看護婦及び市川看護婦らが、まず、気道閉塞の有無を確認せず、気道確保の方法を講じないまま、漫然と人工呼吸を行つたこと、しかも、最初に最も効果の少ない胸壁外人工呼吸の方法を選んだこと、さらに、多田医師らが、気管内チューブの気管内への挿入、人工蘇生器、閉鎖循環式全身麻酔器の使用等による気道の確保及び人工呼吸の試みがいずれも成功しなかつたのにかかわらず、気管の切開を行わなかつたことは、一三の呼吸蘇生のための処置として、適切なものではなかつたというべきである。

11  また、原告らは、一三に対する循環蘇生のための処置も適切なものではなかつたと主張している。そこで、検討するに、一三が病室において呼吸停止及び心停止に近い状態に陥つた後多田医師らがとつた救急処置の概要は、右10で認定したとおりであり、また、多田医師らが心電図検査を直ちに行わなかつたこと、開胸マッサージ等を全く実施しなかつたこと、胸壁外人工呼吸と非開胸マッサージとを同時に行わず、交互に行つたことは、当事者間に争いがない。ところで、〈証拠〉によれば、人の脳は、五分以上の血流停止、酸索欠乏に耐えることができず、三分ないし五分の心停止によつて非可逆的な変化を起すものであるから、患者が心停止に陥つた場合の蘇生処置は、敏速が第一であること、したがつて、心停止の疑いがある場合には、直ちに心マッサージを始める必要があり、しかも、心マッサージは、呼吸停止のままでは効果がないから、人工呼吸と同時に行う必要があること、そして、心マッサージと人工呼吸とは、一人よりも二人で分担して行うのがより有効であること、心マッサージの方法としては、非開胸マッサージと開胸マッサージとの二つの方法があるが、まず前者を試み、その効果がないときは、直ちに後者を試みる必要があること、さらに、心停止が心静止(狭義の心停止)の状態であるか、心室細動の状態であるかによつて処置を異にする場合があるから、心電図検査を行いながら、心マッサージを続けるのが相当であることを認めることができる。そうすると、多田医師らが、心マッサージと人工呼吸とを同時に行わなかつたこと、心電図検査を直ちに開始しなかつたこと、非開胸マッサージの効果がなかつかのにかかわらず、開胸マッサージを実施しなかつたことは、循環蘇生のための救急処置として、相当ではなかつたといわなければならない。

12  最後に、一三に対する救急処置のために使用された薬剤が原告ら主張のとおりであることは、当事者間に争いがないところ、原告らは、これらの薬剤の使用も適切ではなかつたと主張している。そして、〈証拠〉によれば、ビタカンファ、テラプチク、アトムラチンなどについて、その薬理作用や効果に疑問がもたれ、また、副作用の危険が指摘されていることは、原告らの主張するとおりであると認められる。しかしながら、右各証拠によれば、これらの薬剤は、現在わが国ではなお広く救急処置のための薬剤として使用されていることが認められるし、しかも、本件の一三の場合には、これらの薬剤は、その使用量も少量であるのみならず、呼吸停止及び心停止に対する救争処置としては、それほど決定的な効果は及ぼしていないものと認められるから、これらの薬剤の使用自体の適否についてはとくに問題にするまでの必要はないものというべきである。

13 以上において検討したところから判断すると、本件契約に基づく被告の前記債務の履行補助者である竹内医師、多田医師、市川看護婦及び宮下看護婦らの本件手術及びその術前、術中、術後における一連の医療措置には、本件契約の締結当時における医学の水準に照らして、幾多の不適切ないし不完全な点のあつたことを否定することができない。そして、これらの不適切ないし不完全な医療措置は、少なくとも右各履行補助者の過失によるものというべきであるとともに、これらの医療措置の不適切ないし不完全と一三の死亡との間に因果関係が存在しないことの反証のないかぎり、それは、本件手術後における一三のショック死の原因、すなわち、本件手術後における一三の呼吸停止及び心停止の直接的もしくは間接的な原因またはその呼吸停止及び心停止からの回復を不可能にした原因になつたものであると推定せざるをえないところ、本件の全証拠を検討しても、右因果関係の存在を否定するに足りる証拠は存在しない。

三そうすると、被告は、本件契約に基づく前記債務の不完全履行によつて、一三の死亡を招いたものであるといわざるをえず、したがつて、その死亡の結果本件契約の当事者である一三及び原告らが被つた損害を賠償する義務を負うに至つたものというべきである。

四1  そこで、さらに進んで、一三の死亡の結果一三自身及び原告らが被つた損害及びその金額について検討する。

2  まず、一三自身の同人が生存しておれば将来取得することのできた利益の喪失による損害についてみるに、一三がその死亡の当時満一〇歳一〇か月の男子であつたことは、当事者間に争いがなく、原告本人小林カツの尋問の結果によれば、一三は、過去に気管支喘息の既往症があるほかは、発育状態及び健康状態ともに良好であり、本件手術当時小学校五年生に在学していたものであることが認められるから、一三が生存しておれば、その後、少なくとも高等学校は卒業し、通常の給与生活者として就職して、少なくとも満一八歳から満六七歳までの四九年間給与の支払を受けることができた蓋然性は高いというべきであるが、その死亡の結果、これが不可能となつたものである。ところで、〈証拠〉によれば、昭和四八年度における規模三〇人以上の事業所(なお、一三は、この程度の事業所に就職しえたものと推定することができる。)の男子常用労働者の月間平均現金給与額は、原告ら主張のとおり金一四万一二一五円であることが認められるから、一三は、右四九年間、平均して少なくともこれと同額の給与の支払を受けることができたものというべきであり、また、その期間内における同人の生活費相当額は、右金額の二分の一であると認めるのが相当である。そこで、これらの金額を基準にするとともに、年ごとホフマン式計算方法(係数20.0066)により一三が右の四九年間に取得することのできた純利益額から中間利息を控除して、一三がその死亡時において一時に請求しうる金額を計算すると、その金額は、原告ら主張のとおり金一六九五万一三九二円となる。そして、〈証拠〉によれば、一三の相続人は、原告ら両名だけであると認められる(なお、原告らが一三の相続人であることは、当事者間に争いがない。)から、原告らは、一三の死亡と同時に、相続により、一三の被告に対する右損害の賠償請求権の各二分の一に相当する各金八四七万五六九六円の損害賠償請求権を承継取得したものというべきである。

3  次に、原告らの精神的損害についてみるに、一三が原告らの長男であることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告らは、前記認定のような原因及び経過で、全く思いがけず一三を喪つたことにより、甚だしい精神的苦痛を被つたものであることが認められる。そこで、これらの事実と被告の前記債務の不完全履行の態様、その他諸般の事情を総合して判断すると、原告らの精神的苦痛を慰藉するためには、被告が原告らに対し各金二〇〇万円の慰藉料の支払をするのが相当である。

4  さらに、原告らの弁護士費用の負担による損害についてみるに、〈証拠〉によれば、原告らは、被告が右2及び3記載の損害金を任意に支払わないので、やむをえず訴訟手続によりその支払を請求することにしたものであるところ、原告らは、法律知識がないため、訴訟手続の追行につき、弁護士清野惇ほか二名の弁護士に訴訟代理を委任し、共同して同弁護士らに対し、着手手数料として金二五万円を現実に支払い、また、勝訴の場合の報酬として金八〇万円を後日支払うことを約束したことが認められるが、本件訴訟の内容、立証の困難性、本訴請求の認容額その他諸般の事情を総合して判断すると、原告らの右の程度の弁護士費用の負担は、一三の死亡と相当因果関係のある損害と解すべきである。したがつて、原告らは、一三の死亡の結果、それぞれ右弁護士費用合計金一〇五万円の各二分の一に相当する各金五二万五〇〇〇円の損害を被つたものというべきであある。

五以上に認定、判断したところからすれば、被告に対し、それぞれ右四で認定した各損害金のうち、2記載の損害金の内金五八六万四二四九円、3記載の損害金二〇〇万円及び4記載の損害金五二万五〇〇〇円の合計金八三八万九二四九円並びにその内金七九八万九二四九円(右合計額から4記載の弁護士報酬額の二分の一の金四〇万円を控除した金額)に対する本件訴状の送達によりその支払の請求をした日の翌日であることが本件記録上明らかな昭和四六年七月二四日から、残金四〇万円に対する本判決確定の日から、いずれも支払ずみに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める原告らの本訴請求は、すべて理由があるというべきである。よつて、原告らの本訴請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を、仮執行及びその免脱の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(奥村長生 加藤英継 高柳輝雄)

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